尋常科用小學國史 上巻    
文部省  昭和十五年三月一日  文部省 檢査濟

第一  天照大御神
天皇陛下の御先祖を天照大御神と申し上げる。大御神は伊耶那岐尊・伊耶那美尊二神が天下の君としてお生みになった限りなくたふとい神であらせられる。大御神は、きはめて御徳の高い御方で、はじめて稲・麥などを田畑にお植ゑさせになり、蠶をおかはせになって、萬民をおめぐみになった。大御神の御弟に須佐之男尊という御方があった。たびたびあらあらしいことをせられたが、大御神はいつも尊を御弟としておいつくしみになり、ほとんどおとがめになることはなかつた。
しかし、ある時尊が大御神の神聖な機屋をおけがしになったので、さすがに大御神もおきどほりになり、天の岩屋にはいつて、御身をおかくしになつた。世の中は急にまつ暗になつてしまつた。 大勢の神々は、たいそうお困りになり、何とかして大御神にお出ましを願はうと岩戸の外に集まつていろいろ御相談になつた。八咫鏡・八坂勾玉などを榊の枝にかけて神楽を奏し、ひたすらに大御神をおなぐさめ申し上げた。
かうした神々の御心が大御神に通じたのであらう、大御神は再び御姿を岩戸の外にお現しになつた。世の中はもと通り明るくなり、神々はうれしさに思はず聲をあげてお喜びになつた。須佐之男尊は、これまでの御行ひを後悔されて、出雲におくだりになり、肥の河の河上で八岐の大蛇を斬って、人人の苦しみをおすくひになった。この時、大蛇の尾から出た一ふりの劍を、尊はたふとい劍とお思ひになつて大御神に御献上になつた。これを天叢雲剣と申し上げる。


須佐之男尊の御子大國主命は、たいそう勇氣があり、なさけ深い御方であった。出雲地方をお開きになり、人人をなつけてその勢いはなかなか強かつた。天照大御神は大國主命に使いをお遣はしになり、「この葦原の中つ國は、わが子孫の治むべき所である。」とおさとしになつて、その治めてゐる國をさし出すやうにお命じになつた。命はつつしんで大御神の仰に従はれた。大御神はその眞心をおほめになつて、命のために大きな宮殿をお造らせになつた。これが大國主命をおまつりしてある出雲大社の起源である。

大御神はいよいよ皇孫邇邇芸命をわが國土におくだしにならうとして、命をお召しになり、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。さきくませ、あまつひつぎの隆えまさんこと、當に天壌と窮りなかるばし。」と仰せられた。萬世一系の天皇をいただき、天地と共に動くことのないわが國體の基は實にここに定まったのである。さらに大御神は八咫鏡・八坂勾玉・天叢雲剣を邇邇芸命にお授けになつた。
命は、この三種の神器をささげ、神々を従えて日向へおくだりになつた。それ以来御代御代の天皇は、三種の神器をお揃へになつて、皇位の御しるしとせられるのである。大御神は神器を命にお授けになる時、特に「この鏡をわれと思ひて、つねにあがめまつれ。」とお仰せになつた。それ故御代代々の天皇は、この御鏡を大御神としてあがめ給ひ、後、伊勢の五十鈴川のほとりに新たに神殿を建てておまつりになつた。これを皇大神宮と申し上げ、天皇をはじめ奉り、國を擧げて深く敬ひ奉るところである。

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